1966年、私がはじめてエジプトに行ったとき、大変な苦労を重ねてここまでたどり着きました。ちょうどアスワン・ハイダムではナセル湖に水がどんどんたまりかけてきて、アブ・シンベル神殿は1000いくつのブロックに分けて切られ、上に上げられていた時でした。
すごかったですね。『工事現場か!?』と思うほどでした。実際、工事現場なんですけどね。
ダイナミックでしたねぇ。日本ではこんな再建計画はまずありませんからね。すごいなーと思いました。
アブ・シンベルに限らず、ヌビア(アスワンからスーダンにかけての500キロぐらいのところ)に点在する遺跡は小さいのまで入れると、何万。大きいのだけでも500個ぐらいあって、そのうちの100を救おうというキャンペーンが起きたわけです。ユネスコが中心となってやって。現在の世界遺産というのは、これがスタートなんです。
生活圏を守るために文化財を救うのは国際的にやるべきだ、というのがユネスコの考えです。当時のアメリカの国務長官はダレスという人で、偏屈なぐらいに反共主義者でいろんなところで問題を起こしてきた人でしたので、そのダレスさんを抑えるためにもヨーロッパが応援するということでユネスコがお金を集め始めたんですね。 |
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アブ・シンベル大神殿の移築の風景
(1966年ごろ) |
日本は当時外貨がないものですから、1年1万ドルずつ、3年間で3万ドルという、淋しいことをやってたんですね。1ドルが360円の時代でしたけど、それにしても大国といわれるにはとても恥ずかしい状態でした。でも、新聞社が中心となってツタンカーメン展というのをやり、これで100万ドル集めました。よって日本はアブ・シンベルの大神殿を含めたヌビアの遺跡を救うのに、ユネスコに103万ドル寄付したということです。
その時私は、とにかく現場で見ようと、アスワンからずっと、船に乗っかっていったんです。ジープも持っていってたのですが、ジープは2台以上出ないと砂漠を行くことはできない。水中翼船でいく手もあったのですがこれがメチャクチャ高い。飛行機は飛んでいませんでしたし、歩いてはとてもいけない。ということで漁船を探したんです。
湖なのに漁船?とお思いかもしれませんが、南北で500キロ、東西だとどのくらいでしょう…。広いところで100キロぐらい、狭いところでも30キロはある、海のように広い湖ですから、そこにたくさんの魚がいるわけです。それを獲っている漁船に乗っかって、最初3日で行けるという話だったのに、実際には1週間かかりました。大変でした。苦労といえば苦労でしたけど、そうやって行って帰ってきた喜びはすごかったです。
1966年にアブ・シンベルを見たというのは、東海大学にいらした鈴木先生と我々だけだったんですね。いい経験でした。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在サイバー大学学長。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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