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| クフ王、カフラー王のピラミッド(ギザ) |
古代エジプトではピラミッドのことを"ピラミッド"と呼んでいませんでした。ピラミッドという名前はピラミッドを建ててから1000年も経ってから、ピラミッドを見にきたギリシャ人が、自分たちが食べている「ピラミス」という四角錐のパンと形が似ているところから、ラテンなまりになってつけられたのです。
今から2400年ぐらい前、ヘロドトスというギリシャ人がエジプトに行った時、「このピラミッドは何のために造ったのか、誰が造ったのか」ということをそこにいた老人に聞きました。するとその老人は「これは奴隷が造った」と答えました。そして、王様の墓として造ったのだろう。石を引っ張って積み上げたのだろう、ということを言ったということが、「歴史」という本に書かれています。
ヘロドトスは驚いたんですね。こんなばかでかいものを墓にする王様にロクなやつはいない。残酷なやつだ。たくさんの奴隷が死んだに違いない、とクフ王のことを「残酷王」と名づけたりしたのです。
クフ、カフラー、メンカウラーとギザ台地の3つのピラミッドのうち、一番小さいのはメンカウラーのものですが、メンカウラーはえらい。おじいさんが造ったピラミッドと比べて、小さいものを造っている。優しい人だ。という感想を述べています。 |
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| ピラミッド労働者の村跡 |
実際問題として、ヘロドトスは自身はピラミッドが墓であるとは一言も言ってなくて、名もない老人が言ったということを書いただけなのですが、いつの間にか伝言ゲームのようになり、ヘロドトスという立派な歴史学者が、ピラミッドは墓で、奴隷が造ったと言った、というようになり、定着してしまったのですね。ソビエトアカデミーなんかは権力の最悪の成果がピラミッドだ、なんて言ってるぐらいです。
しかし、20世紀の初頭にメンデルスゾーンという人が、あれは奴隷が造ったのでもなければ墓でもない。国家の威厳を示すような、大変重要な国家事業で、しかもこれを造ることによって、ナイル川の氾濫の時に仕事をなくした農民が参加することとなり、自分たちの誇りを作り上げると同時に王様と一緒に来世に行けるという約束ができ、働いた賃金(貨幣経済ではないので、現物支給ですけれども)、そういうものが自分の祖国や愛する家族に与えることができるという、いいことだらけなんだよ、と言ったのです。
今でもピラミッドの直接目的というのはわかりませんけど、間接的な国家的な考えとしては公共事業として、農民の失業状態を救うために行われたのであって、これはその後の神殿建設にも全て当てはまるというのが現在の説です。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在サイバー大学学長。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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