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アレキサンダー大王胸像 (アレキサンドリア、 グレコ・ローマン博物館蔵) |
アレキサンダー大王を知らない人はまずいませんね。もう、世界中の人が知っていると思います。最も有名な人物といって過言ではないと思います。20歳の時から32歳までたった10年間ですよ。これを燃焼させたということですかね。20歳の時に父のフィリッポス2世が亡くなり、それからずっと、ペルシアをやっつけることに執着を燃やしてきた。ペルシアが弱まってきた時にギリシアの都市国家の代表としてアレキサンダー大王が立ち上がります。最大の戦いは紀元前333年のイッソスの戦いです。その時にアレキサンダー大王はいろいろなタブーを破りました。戦争のタブーですね。
それまで古代社会では夜は戦わなかった。日が暮れたら休んでまた日が昇ったら戦いましょうという約束ごとがあったのですが、大王は夜のうちに攻め込むんですね。夜襲をかける。鳥を放つとかいろんなことをして、相手を脅かした上で攻め込んだのです。 |
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古代アレキサンドリアの町 コム・アル=ディッカ円形劇場 |
イッソスの戦いでは、ダレイオス3世は壊滅状態。アレキサンダー大王はその勢いをずっと持続させていました。さすが戦略家です。
まず、エジプトに残っているペルシア軍の残党をやっつけます。後ろから挟み撃ちにするのは大変ですから大王は自らエジプトに入るんです。それをきっかけに大王はエジプト大好きになってしまうんですね。ピラミッドをはじめとするモニュメント、神官たち、文化などを見て、これは大国だ、自分がペルシアを制覇したらエジプトを拠点に置こうと考え、新しい街、アレキサンドリアを作ったのです。しかもエジプトの王になろうと即位式まで開くのです。リビア砂漠の中にある、シーワ・オアシスという所でエジプトのファラオになるんですね。エジプトのファラオ名は"メリーアメン・セテプエンラー"。アメン神に愛され、ラーに選ばれたものという意味です。エジプトに再び戻ることとして攻め込むのですが、そのあっという間にたったったーっとそのままインダス川までいきます。そして中国まで攻めようという勢いだったのですが、部下の『もう帰りましょう、10年も戦争してるんですから』という言葉で帰りかけ、途中のバビロンというところで32歳の命を落とすのです。時に紀元前323年のことです。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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