前回、南からの侵入、西からの侵入という話をしましたね。この末期王朝というのは、最近は第3中間期と末期王朝に分けていますけど、新王国のあとプトレマイオス王朝までの約700年、紀元前1000年から紀元前300年ごろを末期王朝といっています。
こういう言い方は後世につけたものですが、ご存知のように紀元前の1000年というのは西アジア東地中海周辺が激動していった時期なんですね。西側のリビアの方にも半島のほうからずっと、海の民族といわれる人がエジプトを狙っていて、エジプトには入れなくてリビアに入り、そこで力を蓄えていました。一方南のほうでは北の方が動いているぞ、千載一遇のチャンスだと、西アジアが沸騰していた時代です。 |
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ラクシュの攻囲戦のレリーフ (ロンドン、大英博物館蔵) |
その昔から東地中海を支配していた中心的なエジプトが段々弱まってきた。弱まっていたというより、新王国の18王朝、19王朝というのは外国の文化を取り入れてエジプト全体が国際化というか、外国かぶれというか、外国の文化に惑わされていたというんでしょうか、そんな状況の中でアッシリアという国が頭を抜いて力を持ち始めた。アッシリアは自分の国だけでは拡大再生産できないので、どんどん西アジア、オリエント諸国、都市国家を攻めて搾取、植民化してたのですが、その手の伸びた先がエジプトということでしょう。丸々と肥えた、余り反抗しないおいしい肉みたいなところですけれど、そこに手を掛け始めたのです。
そのころ南のヌビアの人たちはエジプト復古調、ピラミッドの頃に戻そうと努力していたのですが、そこに、北からアッシリアが攻め込んできて、そこでぶつかり合ったんですね。その中間に古代ヘブライ王国、ダビデが作った王国がバラバラになった国のひとつ、ユダ王国がサンドイッチの耳みたいにあったんですね。そこをポンポンポンと突いてきて、ユダ王国はエジプトに助けを求めてきて、エジプトもこれは大変だということで連合してアッシリアと戦うわけなんですが、この様子がラキシュ攻防という壁画、アッシリアの首都のニネベ宮殿というところに書かれているのですがこれはもうすごかったようですね。
エジプト危うし。というべきところでしょう。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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