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前回お話しましたように、エジプトに西からリビア人が入ってきて最初は傭兵、
やがて王になって東地中海の王者になった。
しかし、息子たちの兄弟喧嘩がエジプト人を目覚めさせ、リビア人の王朝とエジプト人の王朝が喧嘩を始めた。
すると南側のテーベにいた州侯のテフナクトが戦いを挑み始め、三つ巴になってきた。
それを見ていた外国、北はアッシリア、南はクシュ(ヌビア)の方から入ってくる。非常に緊張しているというか、
あわや、というところだったんですね。この危うい均衡を破ったのがピアンキという人だった。
ヌビアでは2500年ぐらいにわたってずっと、なんとかエジプトを支配したいという悲願があったのですが、
この悲願を達成させたのがピアンキでした。テフナクトという大司教が『我々と一緒に、
デルタ地帯の方のリビア王朝をやっつけてしまいましょう』ということで一気にメンフィスを攻略、
ついに上エジプトの王になってしまう。 |
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ピアンキ王戦勝碑 (カイロ・エジプト博物館蔵) |
1862年にジャバル・バルカルというヌビアのクシュ王国の都だったところから、『勝利の碑文』というのが出てきており、どうやってエジプトを征服したのかという、いってみれば自慢話…無血でもってメンフィスを勝ち取ったというようなことが綿々と書かれている。
この時のピアンキの旗印にはエジプトの再興、ピラミッドの修復、そしてアメン神の復活。まさにエジプト人の心を打つようなことが掲げられていた。現実にピラミッドを見たピアンキはびっくりして、このようなものをぜひ、自分の国にも造りたいと思い、メロエとか、ナパタといった所にピラミッドを200基以上も造っているんですよ。
しかも当時すでに、ピラミッドは王様の墓といわれていましたから、墓として造っている。ピラミッドの墓地のようなところなんです。
しかもヌビアにはなかった埋葬習慣、ミイラを作るとか、シカブティという、あの世で自分の仕事を手伝ってくれる人形を作る。それから死者の書を書き始めるなど、エジプトを尊重する傾向が出た。
エジプトはあっという間にヌビア王朝に支配されてしまった。これが第25王朝で、南がエジプトを支配した最初で最後の王朝ということです。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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