シェションク1世という人はすごい人です。リビアから出てきて傭兵になった。
いってみれば用心棒みたいなもんですね。
それが家をのっとり、家だけでなく、エジプトをのっとり、しかも西アジアまで行ったのですから。
このシェションク1世というのは大変りこうというか用心深い人で、自分が軍人出身で王位についたということで、
軍人を非常に警戒していまして軍の要職にはすべて自分の息子を就かせた。
しかし息子たちは自分たちにはそれなりの力があると、内部争いを始めてしまう。
結果としてシェションク1世の治世はその息子の喧嘩により力を落としていく。
それを見ていたもともとのエジプト人たちは、リビア人は強い、強いというけれど強いもの同士でつぶしあって弱くなっちゃうじゃないか、
ということでブバスティスのすぐ隣りのレオントポリスのペディバステトの息子、
オソルコンという人がエジプト人のためのエジプトの政府、王朝を作ろうと考えた。 |
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タニスのシェションク3世像 (デルタ、サン・エル=ハガル) |
この時、シェションク1世はすでに亡くなっていて、シェションク3世の時代になっていました。
このシェションク3世とオソルコンが自分たちこそがエジプトの王だといい、両者入り乱れて戦うようになり、
兄弟げんか以上にもっと力を放っていく。
国内でもテーベというところで、『上下エジプトを統一するといっておきながら南の方をないがしろにしている』と独立宣言を始め、三つ巴となっていった。
そんなこんなのうち、周りの国では南のヌビアがいつかエジプトに入ろうと狙っていた。
ピアンキという軍略に長けた賢い人が出てきて、テーベのカルナック神殿におまいりに行くと称して軍隊を連れて行ってみると、
テフナクトという大司教におだてられ、いい気になって、もしかすると自分たちでもエジプトを治められるかもしれないという気になって国に帰ったのです。
一方ではアッシリアという国が勃興し、エジプトを虎視眈々と狙う状況になってしまう。
せっかくリビア人がエジプトを治めたのですが200年ぐらいで危なくなってしまうのです。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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