 |
ラムセス2世像 (カイロ・エジプト博物館蔵) |
ラムセス2世はセティ1世の皇太子として、また、総理大臣として、側近として、セティ1世の代わりにもう、いろんな所で戦争をしました。当時エジプトに最も反抗していた、アナトリア高原のヒッタイトという国があります。このヒッタイトが、即位2年目に、アナトリア高原からシリアの方の都市国家と連合して約40ヶ国から50ヶ国を手中において、100ヶ国を連合しているエジプトに攻め込もうとしていたのですが、これを先制攻撃しようと考えたのがラムセス2世なんですよ。
カディシュというのは、今のシリアですね。エジプトは4つの軍団…アメン、ラー、プタハ、セトと4つの軍団を持っていました。そして、この辺のところがラムセス2世の作戦のうまさというんですけれども、エジプト軍の歩兵は4万人。ヒッタイト連合はせいぜい2万人ぐらいだろうから、4万人で行けば2人で1人やっつければいいわけだから勝てるだろうというような計算なんでしょうね。 |
 |
ガディシュの戦い (ラムセス2世神殿壁画) |
ところが、ヒッタイトは、エジプトの兵が4万人だという情報を聞いていて、5万人集めた。しかし途中で軍隊が散り散りバラバラになっちゃったのです。そんな時エジプトはヒッタイトのスパイを二人見つけ、捕まえます。スパイは、ヒッタイト軍はエジプトが怖くて逃げ始め、カディシュから160km行ったところに細々といるだけだ。兵隊も散り散りになって、1万人を切っている。というようなことを言います。
これはいい話を聞いたということで、本来なら4つの軍団が集まって1万人ぐらいずつ、4万人で一気に攻めようというところを、ラムセス2世は無謀にも自分ひとりで行ってしまうんですね。ところが実はこれは策略で、ラムセス2世が谷のところを通っていったところ、その上の山のところにまるで西部劇のように敵がいて、挟み撃ちにあってやられちゃった。
もう大変だったのですが、ラムセス2世は少しも騒がず、たった2人になってもばったばったと敵をなぎ倒した。そしたら勝利の女神が微笑んだんですね。あとからのこのことやってきたセティぐんとかプタハ軍がヒッタイトを挟み撃ちにしちゃった。
ここでその日の戦いは終わりまして(夜は戦いになりませんから)、また明日戦おうと別れたのですが、ラムセス2世は「サヨナラ」とか言って帰っちゃったんです。あのすごいエジプトが帰っちゃうということは、何か策略だろうとヒッタイト側は考えるのです。自分も策略したのですから。だったらもうやめようということになり、と、歴史的には引き分けということになりました。
しかし、ヒッタイトは自分たちが勝ったといっているし、エジプトも自分たちが勝ったといっている。そうやって残っているのです。
情報戦ではないけれど、そんな結果になるんでしょうね。 |
|
●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
| 情報提供: |
 |
|
|
|
 |