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テル・アル=アマルナが
当時のアケト・アテン |
アケト・アテンとは『アテンの地平線』という意味の街の名前です。それまではワセト、現在のテーベが都でした。
ワセトはアメン神の根城、本拠地ですから、ここに行ってアメン神をやっつけるというのは並大抵のことではありませんでした。アテン神殿を造っても一夜にして壊される。アテン神像を作ってもアメン神の刺客が来て壊してしまうという戦いをやっているうちに、もうこれではだめだということになって、アクエンアテン王は新しい都を作ろう、遷都しようということになったのです。その都がアケト・アテンです。
現在のルクソールとカイロのちょうど中間ぐらいにありますので、行くことができます。ナイル川を渡って東岸に10qぐらいに渡って広がっている街なのですが、現在では完全な廃墟です。砂漠のど真ん中にありまして、この砂漠の中に一夜にしてできたといわれています。(が、実際には2〜3年かかったと思います)庭園の址がきれいに残されています。
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アマルナ王宮北宮殿址
(アケト・アテン、
現在のテル・アル=アマルナ) |
街のテーマはアクエンアテン王の永遠のテーマである『平和と愛』。まず、軍隊が駐留していません。神殿はあるけれど神官はいない。そして女性も男性も町の中を歩く。人が攻めてきたら愛と平和でもって対応しましょう。こうしてどんどんエジプトが危なくなっていったんです。そうすると軍隊は解除されても軍司令官なんかがこのままでは危ないと、国粋主義的考え方、愛国的考え方に基づいて地方に軍隊を作り、ひしひしとこの街に攻め込んでゆく。ですからこのアケト・アテンは10年間で廃棄されてしまったんですね。
皮肉にもそのために今でも町並みが残っている。もちろんガレキになっていますけど。10年間でぱっと花が咲いてぱっと散った。それが3400年後に発掘され、そこからいろいろなものが出てきたんです。特に書付け、外交文書が出てきたので、当時のエジプトの状況がよくわかったんですね。ですからアクエンアテンが王にならなければ、エジプトは平々凡々と右肩上がりで3000年間過ぎたのでしょうが、ちょうどこの真ん中あたりの時代でどーんと、それまでの宗教観から政治観から経済観からがひっくり返るようなことを、たったの10年でやってしまった。最も改革に力を注いだ王様なんです。でも10年しかもたなかった。改革とはそういうものなんですね。
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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