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ヒクソスの影響を受けた壁画
(イラクリオン博物館蔵) |
ヒクソスは、西アジア、今でいうレバノンやシリア砂漠地帯の一部族が一気にエジプトに…何といいますかねえ。あまりの急な襲撃でエジプトはあれよあれよという間に占領されてしまった。ヒクソスはりこうですからあまり長く都のメンフィスにいないで、すっとひいてアヴァリスという街を作り、そこを中心にエジプトと交渉しながら、平和で行こう、お互いに住み分けしよう、年貢を納めろ、とかいいながら、片方では地中海を隔てた小国家に対して自分たちがエジプトの代表であるようなサインを送る。
そのひとつの例として、占領してるはずのヒクソスがエジプトの首都のメンフィスに大使を送っていたという話があります。そこには大使館があり、代表が行っていろいろ交渉していました。ですからずっと戦争していたというより、国の半分ぐらいを外国に占領され、その間、適当にやっていた。但し年貢は収めていたし供物も出していたという話なんです。 |
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ヒクソス スカラベ表面
(アブ・シール南遺跡出土) |
実は私たちが発掘をしたメンフィスのすぐそばのところに、ヒクソスのおそらく大使と思われる人たちの一家のミイラや人骨の埋葬された跡が見つかりました。
ヒクソス特有のスカラベとか遺物が出てきまして、メンフィスで死んだ大使や殉ずる人たちはアヴァリスで埋葬されたのではなく、都のすぐそばで埋葬されたということがわかったわけです。異民族支配が始めてのエジプト人としてはうまく対応できなくて、結構過激な外交文書なども出ています。現実にはこの時代の記録は、古代エジプトの中でも少ないうちのひとつですから、エジプト人が占領されながらも異民族を蔑視していた、「こういう交渉していた」なんてことを書くのは恥だという考え方もあったんでしょう。ヒクソスもそういう雰囲気を感じ取っていて、エジプトを通り越して南のヌビアの人たちと連絡を取り合って、両者の距離を縮めながら挟み撃ちにして抹殺しようという気もあったようです。
しかし、この支配に対して、100年も経ってくると、一体このままずっと、外国の支配でいいのだろうかという反省というか、気持ちが思いつめていったというのか、ヒクソスの悲劇につながっていくのです。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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