| 第3回 |
「センウセルト1世と対外政策」
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8/15〜 |
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センウセルト1世像 |
センウセルト一世の時代、一気に外国に目を向けて、外国との交易を通しながら情報をとってきました。その情報をとってくるひとりとして、シヌヘという人がいたのです。シヌヘはずっと外国を回り、言葉は悪いですがセンウセルト1世のスパイとして、情報を集めエジプトに戻ってきた。
そのときのセリフがまたいいんです。「ナイルの水を飲んだ者は必ずナイルのほとりに戻る」
エジプト人の心情ですね。
センウセルト一世は南の方、ヌビアを抑えつけなければいけないと、徹底的に弾圧します。
このときの王族の豪華さ、贅沢さといったら、それはすごいものでした。
泥で造ったピラミッドの近くに大きな王宮をつくり何百という部屋を作った。ギリシャ人はラビリントスと呼びましたが、迷宮。一度入ったらもう出られないというようなものだったのです。どこに王妃や王女がたくさんいて、たくさんの絢爛豪華なアクセサリーもありました。
王女の墓もありました。この王女の墓はメンチュヘテプ1世がテーベの西のお墓を開発したものです。 |
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| 捕虜 |
メンチュヘテプ1世は、国が段々大きくなって、中心が東岸に集まったら町が縦横無尽にできるだろう。そうしたら、そこにお墓があってはあとで開発に困るだろうと考えて、西岸にお墓を作り始めました。まず自分の葬祭殿を作り、その周りに自分や王女の墓を作って広げていったのです。それが花開いたのは新王国時代だったんですね。
太陽が沈む西側にネクロポリスを作ったのは正しいというのを示していますから。その後お墓は西側に作られるようになっていきます。そのピラミッドの近く、西側に王女の墓があり、そこからたくさんのアクセサリーが出てきたのです。(それらは今でもカイロ博物館にあります。)
また、この時代、はじめてエジプトは戦争によってヌビアから奴隷を連れてきました。ですから、この前にはエジプトには奴隷はいなかったということになり、ピラミッドは奴隷が造ったという考え方は正しくない、ということにもなります。
こうやってエジプトがどうやらひとつの国として完結するのではなく、外国とのかかわりを非常に重要視し始めた。この始めの人がセンウセルト1世だったということです。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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