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メンチュヘテプ二世像
(カイロ・エジプト博物館蔵) |
いよいよメンチュヘテプ二世についてお話していきましょう。
まず、前回お話しした、アンテフ三世の後継者はメンチュヘテプ一世という人でした。アンテフ三世まではヘラクレオポリスというところに都がありました。やがて上エジプトの方で『このままでは危ないんではないか。下エジプトにやられてしまうのではないか』とざわつき始めたんです。上エジプトのテーベ、当時はワセトといっていた、神々の集まるところですが、この中心の神様がメンチュ神という、戦いの神様だったんですね。アンテフ一世は軍隊を作って国を守ることを始めたのです。
話はずれますが、このアンテフ一世は面白い人で、エジプトではじめて愛犬に名前をつけた人です。今では当たり前のことですが、そういう習慣をはじめて作ったのがアンテフ一世です。そういう文化的な部分もあったんですね。 |
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メンチュ神
(ルクソール東岸、カルナク神殿) |
アンテフ一世のあと、二世、三世と続くのですが、次第に力が落ちてきます。例えばアビドフの王名表には三世の名前は載っていませんから、だいぶ力が弱くなったことがわかります。
そこへメンチュヘテプ一世が上エジプトから立ちあがって、そっくりとっちゃうわけですね。
メンチュヘテプ一世は二世のお父さんですけれど、何をしたかというと、メンチュ神とアルマントというところにあったもうちょっと力の強いアメン神を引っ張ってきて合体させ、さらにラー神とも合体させて国家神を強固にした。そして死後、息子のメンチュヘテプ二世がいよいよエジプトを完全に掌握しようとしたんですね。
このメンチュヘテプ二世は、国を守るためには相手が攻めてくるのをただ守っているだけではダメだ、周りに攻め込んで領土を拡大してそうしてエジプトを守るのだ、という理論を立てて軍隊を強化していったのです。
もうひとつ大きなことを考えていて、昔のピラミッドをもう一度始めようとプランニングした。結果的には自分のピラミッドを作ることはできませんでしたが、ディール・アル=バハリというところに自分の葬祭殿を作り、そこにちょっと小さなピラミッドを再現しました。今でもエジプトの最も南のピラミッドはこのメンチュヘテプ二世のディール・アル=バハリの葬祭殿の上にあったピラミッドなんですね。
メンチュヘテプ二世は攻撃用の軍隊を作ると共に、ピラミッドも再興しました。国家を強くするためにはやはり、公共事業を再開しなければならないのだ、ということから始まったようです。 |
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●1943年東京生まれ。
幼い頃からエジプトに興味を抱き、1966年に早稲田大学古代エジプト調査隊を組織し発掘を始めました。
ルクソール西岸の『魚の丘』、クルナ村の貴族墓では200体のミイラや未発見貴族墓、クフ王のピラミッド内の第2の『太陽の船』を発見したのは実は私なんですよ。
発掘活動の現状報告などもお話していこうと思っています。
現在早稲田大学客員教授(工学博士)。
本もたくさん書いています。デジタル衛星放送・ヒストリーチャンネル「吉村作治 エジプト博物館」にも出演していますので、こちらをご覧になれば「動く私」に会えますよ!
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